ADHDの私が勇気を出してホワイト大企業を辞めた理由

- この記事は「発達障害が辛くて会社を辞めたい人」「優良企業に入社したものの自分の人生の先行きに疑問を持っている人」向けに書いています。
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- この記事は2019年8月20日更新されました。
- 会社の旧日本的な体質があまり好きではなかった。
- この会社では自分は評価されないと思った。
- この会社に居続けることは人生長い目で見た時に危険だと思った。
会社の旧日本的な体質があまり好きではなかった
頑張らない人が多かった
チャレンジを嫌う文化だった
チャレンジを良しとせず、現状維持を是とする文化が蔓延していました。課長クラスの人間はほとんどが「出世など早々にあきらめて適当に仕事をこなし子会社のマネジメントポストに収まる」方向に向かっているので、そもそも大きな成果を出そうとしている人は非常に少数派でした。当人にとっては、優れた成果を残すことよりも、いかに省力でストレスのない会社生活を送るかというほうがよっぽど大事だったようです。このような状況下では、例えば部下が野心的な提案を行ってきた場合、適当にあしらって現状維持を促すのが最適解となっていました。
人事評価システムが適当だった
ほとんど「無」といってよい人事評価システムでした。上記の通り人事評価がよかろうと悪かろうと課長にはなれるし、部長にはどうせなれないため、自分の人事評価にこだわっている人がほとんどいませんでした。また、課長級は基本的に省力でストレスのない会社生活を志向しているため、部下に対して適切な指摘やフィードバックを行うことはまずありませんでした。(ただし一方では部下に対し「自己の欲求を満たすための感情の発散」はしっかりと行っています。長年の堕落した会社生活の中でマネジメントスキルなど身に着けているはずもなく、人の上に立ってはいけないレベルの人が管理職になってしまっていました)。よって、人事評価は期初に適当に立てた目標に対して適当に評価を付け、それを以て面談を行い
今年はよく頑張ってくれたと思います。来年も頑張ってください
今年一年ありがとうございました。来年も頑張ります

という全く具体性のないやりとりが毎年無意味に繰り返されていました。
この会社では自分は評価されないと思った
社内調整が高評価の鍵だった
前述の通り非常に旧日本的な会社の体質であるため、その環境にうまく適応できる人間が評価されていました(人事評価上では違いは出ないのですが、自分の評価の高低は肌身で感じるものです)。例えば「新しいことに挑戦し、軋轢や困難を乗り越えて大きな成功を収めた人」よりも「なるべく変化をさけ、社内調整をうまく行いそもそも軋轢も困難も生まなかった人」のほうがはるかに高い評価を受ける、といった具合です。残念ながら、自分は後者のようにうまく立ち回れる人間ではありませんでした(おそらく発達障害が大きく関係しています)。
また、優劣ではなく好き嫌いの問題として、自分は維持することよりも改善するほうが好きですし、伝統的な手法を踏襲するよりも工夫を凝らした自分のやり方を開発するほうが好きです。事実、会社でも与えられた業務に対して(時には与えられた業務範囲を超えて)指示された、或いは前任者から習ったものとは違うやり方で仕事を進めたことにより上司に叱責されたことが何度もあります。たいていの場合、「指示されたやり方よりも効率的でかつ優れたOutputを出したのになぜいけないのでしょうか」と真正面からぶつかり、ケンカになっていました。
アウトプットよりもプロセスが重視されていた
私が以前勤めていた会社では、たいていの人間はアウトプットよりもプロセスを優先していました。つまり、アウトプットが結果的にクソの役にも立たなかった(あるいは間違っていた)としても、「言われたとおりにやりました」といえばセーフになる、といった具合です。
仕事の責任とは「言われたとおりのプロセスで作業を執行すること(例えばAという作業ファイルの○○セルに入力されている数値をBという経理部への提出用のファイルの▲▲セルにコピペすること)」であり、決して「企業として或いは事業部として求められる成果を達成する(例えば「上場企業として法的に求められている決算報告上のAという開示事項を正しく集計し、開示する」「マネジメントに対し向こう6カ月間の決算見通しを報告し、彼らが正しい意思決定を行えるようにする」など)ことではありませんでした。常に「Task oriented」の状態であり、「誰のために」「何のため」その作業を行うかということを考える必要はありませんでした。そんな環境に辟易としていましたし、そのような軸で評価を受ける環境は自分に合っていませんでした。
この会社に居続けることは人生長い目で見た時に危険だと思った
会社に残った場合の自分の将来を想像すると、「ぬるま湯に20年間どっぷりつかったどうしようもないオッサン」と化した自分とそんな自分に対する冷ややかな労働市場が容易に想像でき、危機感を感じました。
私が勤めていた企業は紛れもなく優良企業であったと思います。東証一部上場、売上高1.5兆円規模、業界自体もまぁまぁ安定しており(とは言っても最近は怪しいですが)、平均給与も1000万円クラス、平均残業時間は50時間程度と一般的に見たら恵まれていた環境だったと思います。しかしながら、それが永続するという保証はどこにもありません。万が一自分が45歳の時にこの会社が無くなった時に他社が自分をどう見るかと想像してみてください。私の場合は、会社にしがみつくしかないみじめな中年男性が浮かびました。しかしながら、やっぱりせっかく苦労して入社したホワイト企業を後にするのは「リスクが高い」と感じるのが普通だと思います。この思考と直感の矛盾を解こうとしているうちに、自分は以下のように考えるようになりました。
自分の中でリスクの再定義を行った
再定義されたリスクでは、会社に居続けることの危険性を示していた
「リスク=次に失敗した時に回復できない可能性」と考えると、優良企業というぬるま湯につかり続けた場合は「次に失敗する可能性」は非常に低い一方、「万が一失敗した時に回復できない可能性」は高いように思われます。なので自分としては敢えて「失敗して、そしてそこから回復する」練習を今のうちに積んでおいたほうがかえって安全なのではないかと考えるようになりました。